JANIS JOPLIN biography 大学時代〜オースティン

JANIS JOPLIN biography 2
【カレッジ時代(1961年)~LA. ヴェニス. オースティン時代(1962年)】

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高校を卒業後、
ハイスクール時代からの仲間を追っかけて
テキサス州ボウモント近くにある
「ラマー.カレッジ・オブ・テクノロジー」に進学。
そこで美術を専攻し熱心に勉強を行う。
しかし学校生活にウンザリし、生活は悪化。

当時、ビジネス・カレッジで働いていた母は、
短期訓練科が彼女の問題を解決すると考え、
大学を退学し「ポートアーサー・カレッジ」に入学。
キーパンチやタイプ、諸事務などの勉強をすることになる。
しかし、ここでも相変わらず変わることもなく、
友達とダウンタウンのレコード店に通い始める。


そこで彼女は「ベッシー・スミス」のレコードと出会うのだ!


そしてこの頃から、
オープンリールに自分の歌を吹き込む快感を覚えてしまう。
何度も録音した音を友達と聴いては大満足していたらしい(笑)

そんな折、
多くの友人がポートアーサーを出ていってしまい、
ジャニスも、もっと素敵なところへ行きたくてウズウズしはじめる。
そこで両親に相談しロスアンジェルス行きが決定する。
当時、両親はロスに2人の叔母がいて
ジャニスを監督できる最適な場所と考えていたが、
当の本人からすれば、
ビートグループで知られるアメリカの3つの都市のひとつであり
芸術活動が盛んだった事へ何よりも胸を踊らせていた。

そしてついに、
ポートアーサーを出て新たな場所、ロスへ旅立ち、
友達3人と一緒に暮らしはじめる。
そんな意気揚々として乗り込んだロスだったが.....
結局、長続きせず、
様々な出来事に嫌気がさしてバイト帰りにアパートには戻らず、
バスの中で知り合った男について行きヴェニスへ辿り着く事となる。

しかし、
当時のヴェニスはビート全盛期からかなりの時が経っていて、
ジャニスが乗った波は
「リプトン」が出版した著書
『聖なる野蛮人』(1959年)で有名になった街に惹かれて押し寄せた
新しい住人の大波の最後の小さな波だった。
その頃には街もすっかり朽ち果て、
殺人、強盗などといった犯罪がはびこっていた。
そしてヴェニスはもはやドラッグの世界の中心でもあった。

また、当時のロスとヴェニスのビートシーンを特徴づけるのは、
ドラッグと芸術の関係であり
それを象徴するのが「一晩中、寝ないで芸術を創造」する事であった。
しかし、ジャニスにとってここで眼にした沢山の才能に
多大な影響を受けたことは言うまでもないだろう。
そして、この頃から
シンガーとしての才能も少しづつ現しはじめるのだ。

ところがそんなジャニス、
1961年に突然、
何の予告もなくポートアーサーの自宅に帰宅!?
しかし、ロスでの自由な暮らしを経験してしまったせいで、
再び両親の監督の下で暮らす事にいささか息苦しさを感じ始め
1962年の春に、新たな計画を企てはじめるのだった。
でも、ジャニスが戻った時、家族はみんな心から喜んだらしい。

一方、ポートアーサーにはオースティンの活気に溢れた噂が伝わりはじめる。
相変わらずのジャニスはまたこっそり父の車を拝借し、
オースティンの大学に通う友達の「ジャック・スミス」とオースティンを訪れる。
そこで連れていかれた場所が、
ニュエイサス.ストリート.2812.1/2のアパートメントにあった


そう、「ザ・ゲットー」だった。


ちなみにゲットーの合い言葉は「何ものにも束縛されない!」

ここで再び素晴らしい出合いをしたジャニスは、
また両親を説得し
1962年、「テキサス大学-UT」へ入学することになる。
それにしても、とんだお転婆娘で
両親もいくらお金があっても大変だっただろう(笑)
でもいつでも彼女のやりたいように信じて応援してくれていたんだと思う。

この頃からジャニスは
画家の孤独な作業からパフォーミングアートへと興味を移し始め
絵を描くことよりも、人前で歌う喜びの方に魅力を感じていた。
やがてゲットーの住人、
パウエル・セント・ジョン(ハーモニカ)、
ラニー・ウィギンス(ギター&バンジョー)と3人でグループを結成。
ブルーグラスやカントリー、フォークなどをはじめる。
そして、この時期に彼女にもっとも影響を与えた人が


ケネス・スレッドギル


彼はシンガーでもあり「スレッドギル・バー」の経営者で、
「ホンモノ」の音楽の正統的なルーツを沢山教えてくれたのだ。
ガソリンスタンドを改装したこのバーは、「禁酒法」が解かれた時に、
オースティンで最初の酒類販売特許を取得した店。

スレッドギルはジミー・ロジャーズの信捧者で、
そんな彼をとおしてジャニスは
「ひとつの音楽に、情熱的に関わることの素晴らしさ」を学ぶこととなった。

そんな素晴らしい環境の中、
ジャニスもグループ3人で「スレッドギル・バー」で歌うようになる。
ちなみにこの頃のギャラは3人で2ドルの現金と
飲めるだけのビールだったらしい(笑)
ん~こりゃ、ビールの方が俺も嬉しいかも。

ところが、
何とジャニスは次第にギャラをメンバーで分ける事が惜しくなり
ピンでも演奏しながら歌えるようにとギターを始める(笑)
この行動力は凄い!というか恐い(笑)

当時の父親的な存在だったスレッドギルはこの頃から、
ジャニスの才能を見抜いていたようだ。

「ジャニス、おまえは必ず成功する。それだけのものを持っている」と言った。

それからというもの、
ジャニスは歌って歌って歌いまくる日々が続いた。

よく、ジャニスが父親と決別し、
その姿をスレッドギルに重ね合わせていたなんて噂もあるが、
そんな事はない。
この頃も、いつだって
ジャニスはきちんと両親と向き合っていました。
なんでそ~何でもかんでも彼女の出合いと別れをセットにして
悲劇的な話にするのかが、俺にはさっぱり理解ができない。。。

ちなみに20才になったこの頃、
「コーヒーギャラリー」と言う店も気に入り出演させもらうようになる。
そしてこの店こそ、
後に BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY で一緒に活動を共にする


James Gurley / ジェイムズ・ガーリー
Sam Andrew / サム・アンドリュー

が出演していた店であった。


さて、ここまでのジャニスは、
既知の世界と未知の世界のはざまで生きる興奮が好きだったんだと思う。
彼女の衝動はポートアーサーで形成され、
オースティンで初めて、自分の力を試し、
一生懸命練習をした。
オースティンはジャニスに歌うことを教え、
テキサス流の精神に満ちたモノの見方を教えてくれたのだ。
そしてそこで、水の冷たさを調べ、経験を積んでいった。

ジャニスは既に、
チャンスが巡ってきた時の準備が整っていたのだ。


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JANIS JOPLIN バイオグラフィー1
【ジャニスリンジョップリン誕生(1943年)~ハイスクール時代(1960年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー2
【カレッジ時代(1961年)~LA. ヴェニス. オースティン時代(1962年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー3
【サンフランシスコ時代(1963年)~再び戻った家族のもと(1965年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー4
【BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY への加入(1966年)〜成功への階段(1967年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー5
【BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY 脱退(1968年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー6
【KOZMIC BLUES BAND 結成(1968年)~解散(1969年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー7
【真剣な恋、そしてFULL TILT BOOGIE BAND結成~アルバム「PEARL」レコーディング開始(1970年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー8
【1970年10月4日. ジャニスの死】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー9 最終章
【大好きなジャニスへ】


ジャニスジョップリン
シリアル別のアナログ盤、ディスコグラフィーなど、
様々なコレクションはこちらで紹介しています。
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by ohpg | 2011-01-20 04:02 | JANIS JOPLIN
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