JANIS JOPLIN biography ビッグブラザー加入〜

JANIS JOPLIN biography 4
【BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY への加入(1966年)〜成功への階段(1967年)】

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1966年、
テキサス・ユニオン・オーディトリアムで開催された
ブルースフィスティバル「バレルハウスとブルースの宵」に出演。

これは彼女にとって、
クラブ以外の場所で「プロ」として歌った初めての経験となる。
この時に聴衆は完全にジャニスに魅了され、
以来いくつかの仕事もとれるようになる。

益々、歌う事への意欲が湧いてきたこの頃、
父のオープンリールに吹き込んで作った曲が「タートル・ブルース」。
そんな折、以前から長い付き合いだった
「チェット・ヘルムズ」から1本の電話が入る。


「 BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY がシンガーを探している!」


その連絡を受けたジャニスは心に誓いをたてる。
「独自を通そう!」と。
そして突然訪れたチャンスを手にする為に
再び、ポートアーサーを後にする事を決意をする!
この時こそ、彼女の行動力、
フットワークの軽さがものをいった試しはなかっただろう(笑)

1966年、
シスコに急な移動をしたジャニスは両親へきちんと手紙を送っている。

「熱中し過ぎて、
 行き過ぎることがないよう努力している事を伝えておきたいんです。
 お父さんとお母さんをガッカリさせてゴメンなさい。
 私も少し不安ですが、
 このチャンスを絶対に逃してはいけないと思っています。
 私がこれ以上ないくらい、
 ちゃんとやろうと考えでいる事を信じてください 」

こんな手紙をわが子にもらったら、
きっと両親も嬉しかったと思うし応援したくなるに決っている。
ジャニスだって一番理解してもらいたいのは
何よりも家族だって事を言葉にしているし。


そして遂に、ジャニスは 正式に、
BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY のシンガーとして加入!


しかもシスコに到着してから僅か6日で
バンドと一緒にステージに立つという驚異的なスピード!
一方この時期ジャーナリズムが
ヒップスターから派生した「ヒッピー」という呼び名を作り上げる。
また、世の中ではLSD、メスカリンなどの
悪魔のドラッグが広がり始めていた。。
だが、アンダーグラウンドでそんな暗雲が立ち隠る社会であっても、
14才でそれまでの文化を拒否して以来、
ジャニスが探し続けてきた究極の世界がそこにはあったにちがいない。
次第に「ヒッピームーブメント」は彼女の真の姿、
その心を受け入れはじめ、ありのままの彼女を認めだした。
 
この頃、ジャニスは「ジェームズ・ガーリー」と恋に落ちる。
だがバンドの結束が固まり、
その一員であると言う気持ちが強まる一方でジャニスは常に、
このバンドでやって行く事が、
本当に自分にとって良いことであるかを自問していたようだ。
周囲が思う以上に彼女は冷静だったのだ。
そして何通もの手紙を両親に送り、
状況や心のうちを語っては相談をしている。
そんな娘に対し父は「幸運を祈り、成功を願う」と勇気つけている。
それを物語るように、
この時期のジャニスは一切のドラッグ、精神安定劑を拒否し、
好きなお酒だけにしている。
 

同年、BBHCはメインストリームより、
1stシングル「BLIND MAN/OLD IS LONLINESS」を発売。

ジャニスは一生懸命になって友達や家族にシングルを送った。
しかし、評判は今ひとつ。
BBHCは懸命な努力をして音楽の「魂」を探し始める。

あるブルース作品でサム・アンドリューがとても変わったコードを惹いた時、
ブルースに於いて純粋主義を捨てていないジャニスが

「それは、テレビのブルースよ!」

と否定した事は有名だ。


一方、世の中ではヒッピーが急増。
彼等は、両親の世代から引き継いだものに背を向け、
精神性を理解する新たな道を模索した。
そして社会に向かって「私達は全員がひとつの精神的存在だ!」と叫んだ。
ジャニスもまた「自分達で愛にもとづいた社会を築くのだ!」と説いた。
「フリーラヴ」こそもっとも尊重した合い言葉であり、

「愛を全ての人に分け与えていけない理由は無い!」

というものだった。
 

1967年、ジャニスは言っている。

「みんなが私に何を求めているのかが分かりました。
 それは、私の自由な感情なんです!
 BBHCは譜面を読めません。
 私達は感情をコントロールして上手い演奏をするプロじゃなくて
 激情にまかせて下手な演奏をするんです! 」
 

ジャニスはそれまでにない自信に満ちあふれ
「一文無しになって分裂するか、有名になって金持ちになるか」
というギャンブルにかけていた。
そして世に中の、
伝統的な社会と新しい社会の落差が大きくなればばるほど、
ジャニスの生活と仕事は華やかになっていった。


この頃からフィルモア、アヴァロンで定期的なコンサートを開始。
同年にゴールデン・ゲイト・パークで行われた
「ヒューマン・ビー・イン」では2万人を集客する。
この時に一緒に出演したのが、
グレイトフル・デッド、クイックシルバー・メッセンジャー・サーヴィス、
ジェファーソン・エアプレインなど。
まさにロックンロールとドラッグ、フリーラヴが融合したコンサートとなる。

しかしこの頃から成功への思いがジャニスを支配するようになってゆく。

「成功」するという事にとりつかれるあまり、
自分と同じように考えない人間を理解出来なくなっていた。
だが、仕事面に於いては以前よりも真剣に考えられるようになった。
 
そしてあの
「モンタレー・インターナショナル・ポップ・フィスティバル」に出演。
ピート・タウンジェントはギターを壊し、
ジミーはゴールドのシャツに赤いベルボトム、
その首には羽を撒いて現れギターを燃やしてクライマックスを飾った。
BBHCの演奏も「奇跡」と絶賛されたが、
事もあろうが、そのコンサートを撮影されていなかったのである!
それに激怒したメンバーは主催者に交渉し、
結局もう一度ステージで演奏しフィルムに収める事を了承させた。
そのステージが所謂アンコールだったのだが、
この日アンコールを行ったのはBBHCだけ。
世の中の人々はフィルムを収めるためだけのステージだったとは知らずにいたが、
逆にこのアンコールがバンドの評判を底上げする事になった。

その後、メインストリームは1968年までにBBHCの人気を利用して
4枚のシングルと1枚のアルバムをリリースするものの
どれも古い音源ばかりでメンバーを激怒させる。

しかし結果としてBBHCはまさに成功を手にすることとなる。

ろくなアルバムもリリースしていない状況にも関わらず、
いつしかバンドは一晩で2500ドルも稼げるようになっていた。
アメリカの音楽業界は確実に革命がおこり始め、
大きく変わろうとしていた。

ジャニスも次第に多忙な生活へ追い込まれはじめ、
彼女はアルコール程度にヘロインを始めてしまう。。。


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JANIS JOPLIN バイオグラフィー1
【ジャニスリンジョップリン誕生(1943年)~ハイスクール時代(1960年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー2
【カレッジ時代(1961年)~LA. ヴェニス. オースティン時代(1962年)】

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【サンフランシスコ時代(1963年)~再び戻った家族のもと(1965年)】

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【BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY への加入(1966年)〜成功への階段(1967年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー5
【BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY 脱退(1968年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー6
【KOZMIC BLUES BAND 結成(1968年)~解散(1969年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー7
【真剣な恋、そしてFULL TILT BOOGIE BAND結成~アルバム「PEARL」レコーディング開始(1970年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー8
【1970年10月4日. ジャニスの死】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー9 最終章
【大好きなジャニスへ】


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by ohpg | 2011-01-20 23:51 | JANIS JOPLIN
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