カテゴリ:JANIS JOPLIN( 10 )

JANIS JOPLIN 大好きなジャニスへ

JANIS JOPLIN biography 9 最終章【大好きなジャニスへ】

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1970年10月4日、
ジャニスは逝ってしまった...。

ヘロインとアルコールによるオーヴァードース。
それが最終的な死因結果であることに間違いはない。
しかし、
それだけがジャニスを「死」に追いやった原因なのだろうか。


ただひたすら「成功」へ向かって彼女は努力した。
ただ「ブルース」が大好きで歌を歌った。
シンガーとしてではなく



ジャニス・リン・ジョップリン として



愛されたかっただけなのに。


「自由とは、失うものが何もないこと」


と、ジャニスは歌っているが、
彼女が本当に言いたかったこと、
それは


「失いたくないものがある」


という事でした。

家族や、友達、メンバー、名誉...
そしてドラッグをしていない自分自身。

ジャニスを「死」に追いやった一番の原因は、





 世の中の冷たさだったのではないだろうか。




俺はそう思います。

きっと彼女は、
今日もゆらゆらと大平洋を自由に泳いでいるんだろうな。


今回、
ジャニスをもっと分かって欲しいという気持ちだけで、
この長いページを綴りました。

そして彼女は、
偉大なシンガーである以上に「愛されたい」と願っていた
普通の女の子だということを、
伝えたかっただけなのです...。



俺は、
ジャニスの歌が大好きです。
ジャニスの笑顔が大好きです。


□ Gisuke



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JANIS JOPLIN バイオグラフィー1
【ジャニスリンジョップリン誕生(1943年)~ハイスクール時代(1960年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー2
【カレッジ時代(1961年)~LA. ヴェニス. オースティン時代(1962年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー3
【サンフランシスコ時代(1963年)~再び戻った家族のもと(1965年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー4
【BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY への加入(1966年)〜成功への階段(1967年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー5
【BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY 脱退(1968年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー6
【KOZMIC BLUES BAND 結成(1968年)~解散(1969年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー7
【真剣な恋、そしてFULL TILT BOOGIE BAND結成~アルバム「PEARL」レコーディング開始(1970年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー8
【1970年10月4日. ジャニスの死】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー9 最終章
【大好きなジャニスへ】


ジャニスジョップリン
シリアル別のアナログ盤、ディスコグラフィーなど、
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by ohpg | 2011-01-21 01:09 | JANIS JOPLIN

JANIS JOPLIN biography 死亡 ランドマークホテル

JANIS JOPLIN biography 8【970年10月4日. ジャニスの死】

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1970年10月3日、
「生きながらブルースに葬られて」のレコーディング。

快調にオケの録音を終了。
次の日に行われるジャニスのヴォーカル録音の準備を整え、
メンバーは23:00に帰宅。

ジャニスは泊まっていた「ランドマーク・ホテル」に戻る前、
いつものように「バーニーズ・ビーナリー」というバーに立ち寄った。

レコーディング中もスタジオで飲んでいたのだが、
そこのカウンターで2杯の酒を飲み、
その後ホテルに戻る。

普段、
仕事の後に泳ぐことも多かったが、
その夜は泳がずに、
午前1時頃、タバコを買いにロビーへ行っただけだった。

自分の部屋に戻ったあと、
ジャニスはブラウスにパンティという姿でベッドに座る。

そして横のテーブルにタバコを置き、
お釣を手に持ったまま、



彼女は前に倒れた...。



その時、
テーブルにぶつかり、唇が切れた。







ジャニスリンジョップリン死亡。
享年 27才. 1970年10月4日. 秋。






ジャニスは、ホテルに戻った後、
いづれかの時点でヘロインを打った。

そしてそれは、
静脈ではなく皮下に注入されていた。

静脈注射の場合は、
即座に強烈な衝撃を与えるのに対し、
皮下注射の場合、
最大の衝撃はそれよりも遅く、
90分くらいの間に訪れる。

その夜、ジャニスが使ったヘロインは
夕方に「ジョージ」という男から買ったものだった。
実は、ジャニスは
ヘロインを始めてからずっとこのジョージから買っていた。
同じ売人からしか買わないように気をつけていたのだ。
もしかして、


ジャニスが愛していた愛犬と同じ名前だったからだろうか...。


そんな事を俺は思った。


ジョージの方も、
自分の売るものに気をつけ、
いつも売る前に化学テストを行っていたらしい。

しかし、
よりによって、
この日に限って、
いつもテストをする人間が街にいなかった...。


その土曜日、
ジャニスが買ったヘロインは、
純度が40%~50%もある
通常の4倍から10倍の効果を持つものだった。



床に倒れたジャニスが発見されたのは、
日曜の夜7:30。


死因は、
ヘロインとアルコールの相乗効果による
偶発的な「オーヴァードース」だった。



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by ohpg | 2011-01-21 00:58 | JANIS JOPLIN

JANIS JOPLIN biography フルティルトブギーバンド

JANIS JOPLIN biography 7
【真剣な恋、そしてFULL TILT BOOGIE BAND結成~アルバム「PEARL」レコーディング開始(1970年)】

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1970年、
ジャニスはヘロインという悪魔から抜け出そうと
懸命に努力をしていた。

しかし世の中もまた、
1968~1969年にかけてのヘロイン大流行が、
この年にはヘロインを辞める戦いに変わっていた。
みんながジャニス同様にドラッグから抜け出そうと格闘していた。

アメリカの時代は明らかに変わりはじめ、
ニクソン大統領はヴェトナムから軍の撤退をはじめようとし、
失業率は6%にのぼり、
18才の者に選挙権が与えられた。

この頃、
ジャニスはルームメイトの女友達と
リオのカーニヴァルを観にブラジルへ出かけている。
その理由は、
ドラッグ無しでも毎日を狂って過ごせるというものだった。
その旅の途中で


「デイヴィッド・ニーハウス」と劇的な出合いをする。


彼は1年半の間、カヌーでアマゾン川を行き、
ブラジルのジャングルを探検して戻ったばかりの荒々しくて逞しく、
人生の経験を十分に積んでいる男だった。

ジャニスはいつも、
自分のソウルを愛してくれる男性を求めていた。
有名なシンガー、ビートニクという表面の奥にある自分を見てくれる男性。
そしてそれを彼の中に見つけたのだ。
一夜限りの愛ばかり繰り返される中で、



ジャニスの真剣な恋が始まった。



実はデイヴィッド、
ジャニスを本物の「JANIS JOPLIN」だと知らずに付き合い始めたのだ。
その後ジャニスに

「君って、ロックスターのジャニスジョップリンに似てるよ」

と言ったそうだ。

ブラジルにいる間、
ジャニスはヘロインを使わず、デイヴィッドもそれを懸命に助けた。
禁断症状~衰弱、不眠、悪寒、
コールドターキーという名の由来になった繰り返して起こる鳥肌を起こす間、
彼女を抱き締めて励まし続けた。

ひどく苦しい1日の前後に
少しだけいい日があるという状態が繰り返された。
しかし効果は確実にあり、
ついにジャニスの身体からヘロインが抜けたのだ!

この滞在中、
ジャニスとデイヴィッドは沢山の話をしている。

ジャニスは音楽業界で成功した事がどれだけ大切か、
オースティンのスレッドギルの店で初めて拍手をもらった時に
どんな事を感じたか、などなど。

彼女は自ら飛び込んだ恐怖を克服したのだ!

その後オフを終えたジャニスが先にシスコに戻り、
2日後にデイヴィッドが到着。
ところがデイヴィッドは
灰色の幽霊に変わってしまったジャニスを見て言葉を失う。。


シスコのロックシーンは、
この4ヶ月間のうちに滅茶苦茶な状態で、
それだけでも人を混乱させるに十分だった。
そして再びじゃニスはヘロインを使用してしまう事となる。

デイヴィッドはヘロインの使用を反対しつつも、
ジャニスがそれを使ってしまう理由も同時に理解していた。

誰もが大きな感情の揺れを持っている。
人生は、ある時は明快でたやすく、
ある時は複雑で人を押しつぶしてしまう。

そのうえジャニスの前には、
ミュージシャンとしての多忙な日々とスケジュールの制約があった。
友達に会う事が出来ない日々が何ヶ月も続いたりしていた。

ジャニスはそれでも
デイヴィッドとの関係を続けようと懸命な努力をした。
ところが、彼が息抜きに一人でスキー旅行へ出かけ、
二日後に戻った時、
ジャニスが女性の恋人とベッドにいるとこころに遭遇してしまう。
そう、実は以前から


ジャニスはバイセクシャルだったのだ。


そしてついに二人の関係は終わってしまう。

実はジャニス、
本気でデイヴィッドとの結婚を考えていたらしい。

これを機にジャニスはブルース・バンド結成を諦めることにする。
それは、
大衆には認められそうに無いという判断から
自らがくだした結論だった。
そして、フォーク、ブルースシンガーだった彼女は、



ソウルフルなロックンロールシンガーへと転向する。



黒人ブルースの真似事ではなく、
個人的なブルースのヴァージョンを歌うことだと思ったのだ。
そして新バンド、

FULL TILT BOOGIE BANDを結成。


ジャニスは、
自分のパワーは真実を見極める事から生まれる事に気付きはじめていた。
また、個人としての自分と、
仕事の自分を分けて考えられる様にもなった。
そして、
自分の人生と仕事の関係を深く考えられるようになった。

勿論、問題もまだまだ多かったが、
それでもジャニスは自信を持って前進しようとする強さがあった。

この頃一時、
過去に立ち返ってみる気になっている。

そして、1970年4月4日に、
BBHCと一緒にステージに立ちバックヴォーカルをとった。

5月、ついに「FULL TILT BOOGIE BAND」がコンサートでデビュー。

バンドの状態も最高で、
BBHC時代のような家族的な付き合いも増え、ジャニスも快調!
再び本気モードに入った彼女はヘロインを断ち、
ツアー中は読書にふけっていた。

ジャニスの眼は明るく澄みきって、やる気十分だった。


そしていよいよ、
新しいアルバム(後のPEARL)のプリプロに突入!


この頃、ジャニスは
シンガーを引退したら「パールズ」というバーを開こうと計画していた。

そんな事もあり、
自分の事を「パール.バリー」と呼んでいた。

常連の客に

「ヘイ、パール、ビールおかわり!」

なんて呼ばれる事を想像しては楽しんでいたみたい。
しかし一方、
現実生活は相変わらず激しい起伏が続いていた。
そんな時彼女は


「自分は、心を売る売春婦のようだ」

 
と言っている...。

ジャニスは手首に「人生を認めた記念に」とタトゥーを入れ、


「望むだけを得られる事、
 そして死ぬ時は誰もが独りだって事、
 それを悟らなくちゃいけないのよ。
 本当の意味でそれを認める事ができたら、
 あまり傷つかずにすむ...。
 できるうちにやらなくちゃダメ。
 だって明日、それは無くなってしまうかもしれないから!」


とも言っている。


そんな時、8月5日、
ハイスクール卒業10周年の同窓会の知らせが届き
家族の疑問をよそにジャニスは出席をする。

実は6月に放映された「ディック・キャヴェット・ショー」の中で、
この同窓会を話題にして

「みんなは私を笑ってクラスの除け物にした。
 街からも州からも追い出した。
 だから帰るのよ!」

と話していた。
でも実際、ジャニスはちょっと後悔をしていたらしい(笑)
そして妹のローラを誘って出かける事にする。

この時、会場のインタビュー席を見たジャニスは
「まるで最後の晩餐みたいじゃない!?」と呆れて言った(笑)

実は同日のポートアーサーには
「ジェリー・リー・ルイス」がコンサートで訪れていた。

彼女は以前、ルイヴィトンで彼のコンサートに行き、
その後バックステージに行ったのだが、
ルイスはジャニスと話す事を拒否した男だった。
そんな事もあり、
からかい半分でローラを連れて再び訪れてみたものの、
かなり冷たい皮肉を浴びせられ
反射的に彼の顔面に拳をおみまいしてしまう事となる(笑)



9月、
LAに移動し「PEARL」のレコーディングを開始!


ちなみに、
CBSの規則では所属アーティスト、バンドは
社内のスタジオ、エンジニアを使用する事となっているのだが、
社外のスタジオでレコーディングを許されたCBSの歴史的な人物が
ジャニスなのである。

ジャニスはもっともっと大きな「成功」を掴むため、
一生懸命に取り組みながら
浮き沈みの激しい毎日を繰り返していた。


そしてまたヘロインを身体に流しはじめてしまう...。


レコーディングの間に、
お互いヘロインと敢然に縁を切るまで会わないと決めた友人と
1969年以来の連絡をとり
10月5日に「三船敏郎」の時代劇を観に出かける約束をしている。
恐らく時期的にこの映画は「SHO-GUN」じゃないかな?
あくまで推測です。

また、
以前から新しいアルバム用に曲を作ってくれ!と頼んでいた
NYの友人に連絡を入れている。

この時、
デモテープが待切れないジャニスは電話口で無理矢理、
友人に作った曲を歌わせたりしている(笑)
ジャニスはその曲が一発で気に入ってしまったらしく、
その友人は電話を切ってすぐにスタジオへ走り
デモのレコーディングを行ったらしい。

その曲は、
結局世の中に出る事のなかった


「私は、ロックンロール・ヘヴンに行く」


だった。



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by ohpg | 2011-01-21 00:48 | JANIS JOPLIN

JANIS JOPLIN biography コズミックブルースバンド

JANIS JOPLIN biography 6
【KOZMIC BLUES BAND 結成(1968年)~解散(1969年)】

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1968年12月、
新バンド結成わずか3週間でデビュー。

この時点ではバンド名はないが、
後に「KOZMIC BLUES BAND」と呼ばれるようになる。

当時大ブレイクしていた
「アレサ・フランクリン」のようなスタイルにしようと
ホーンを参加させ、リズム&ブルース的なサウンドを目指す。
自分の心に自由に歌わせ、
昔から惹かれていたサウンドと自分の感情を合体させるチャンスでもあった!

そして12月21日、
メンフィスで行われたスタックス・ヴォルト・コンサートで初ライヴ!

心体的にもちょっと落ち着いたジャニスは
ポートアーサーにもちょくちょく戻る機会を増やしている。
また、この頃に弟のマイケルが
「お姉ちゃんのように学校を辞めて付いていきたい!」と言い出す。

ジャニスはそりゃ~弟が自分を信頼してくれたことを
心から喜んだに違いない。
でも、

「学校は絶対に辞めちゃダメ!卒業しなきゃダメよ。
 私のところには夏休みに来なさい」

とお姉さんらしい意見を述べている。
ん~ジャニスも25才になって、
大人になったんだな~と実感できるやりとり。


1969年、
一方メディアは、BBHCを脱退したジャニスバッシングをしはじめる。
これらは正直、俺は興味無いことだけど、
この後のジャニスをお話する上では必要なのかもしれない。
だから敢えて、いくつかを記すことにします。


 *その脱退はシスコシーンやジャニスに共感した事への公的拒絶だ!

 *ヒッピー文化が公然と軽蔑してきた金銭欲と個人に対する社会評価。
  ジャニスはそのエサに食らいついたのだ

 *今のジャニスはただのショービジネスだ

 *成功がジャニスをダメにした!

 *新しいやり方は滑稽で不愉快だ!


新しいバンドとBBHCの大きな違いは
メンバーを金でやとったスタジオミュージシャンだということ。
当然、ジャニスがそれまでに経験した
家族的なバンドを理想とする考えが通用する余地はどこにもなかった。
ステージを降りれば、ハイ、サヨナラ、
彼らの生活はバラバラだったのだ。

バッシングに対してだって、
ジャニス本人が一番分かっていた事だし、
それを理解した上で踏み切った決断だったのだ。
でもジャニスだって普通の弱い女の子だよ。
そんな事を公に言われれば辛くて泣くにきまってるじゃないか!
そんな状況に追い込まれてますます酒の量が増えていってしまう。
酒くらいで気がおさまるんなら飲ましてやれ~!
って俺だってそこにいたら言ったかもしれないな...。

そんな中、
3月にカリフォルニアへ行き、反感で沸き上がっている
ウエスト・コーストのファンとマスコミの前でコンサートを行う。
この時のプレッシャーが
ジャニスにヘロインの使用回数を増やさせてしまう事にもなる。

分かっていながら、
どうしようもない状態で、
大好きなアルコールにヘロインをプラスすることへの危険な賭けをしていた。
そして瀬戸際にいる自分に気付かないまま、
成功を目指して歌う事に集中した。


この頃、ジャニスは「どうしてドラッグをやるの?」
という友達の質問にこう答えている。


 「ただ少し、平和が欲しいだけなの」


そんな状態にあってもコンサートは確実に成功をおさめ、
怒濤のツアーを繰り返す日々が続いていく。


アルバム「コズミック・ブルース」リリース。

TV「ディック・キャヴェット・ショー」への2度目の出演。
TV「ミュージック・シーン」、
伝説の「ウッドストック」出演など


1969年はジャニスにとって真の意味で飛躍の年だった。


そしてジャニスはついに
相棒、サム・アンドリュー解雇する決意をする。


サムはウッドストックのわずか3本前のコンサートで
静かにギターを荷造りし、バンドを出て行った。


この出来事はジャニスも相当、
心から困惑したに違い無いだろう。

そして二人は初めて、ベッドで抱き合った。

この頃から、
それまでの元気がいい生意気なジャニスから、
周囲の無理解にウンザリして幻滅したジャニスに変わっていた。
ドキュメンタリ映像「Janis」のインタビューの様子なんかがまさにそうかも。


10月26日、


フロリダでジャニス逮捕。


巨大な会場で大勢の若者が椅子に立ち上がり興奮して騒ぐことから、
地元警察が重大な事態が発生することを心配していた。
そんな中、
ライヴ中に警官がステージに上がり拡声器を持ち出す。
それを見兼ねたジャニスは演奏を中断させ、
警官に冒涜的な言葉を放ってしまう。

一方、
そんなジャニスは「白人女性のブルース」の領域を超えようとして
音楽的模索を繰り返してもいた。
それまで影響されたアイドル的な黒人の真似事から
白人の伝統を引き継ぎ、
なおかつソウルフルな新しいサウンドを作るという難題に挑戦していた。


だが一方で、
ジャニスの身体は確実にむしばんでいた。


コンサートの間に高まったアドレナリンの放出を止める方法と、
ステージでの激しい集中を和らげ、
休息を得るためにヘロインを使用していた。
それでも彼女は自分から「ヘロインをやめたい」と医師を度々訪れもしている。
ジャニスはこの悪魔から逃れたいと願っていた。
そして様々な療養方から、
彼女は静かな場所に「家」を買うことを選んだ。

この年の年末には4ヶ月の休養をとり、
以前から欲しがっていた犬を飼う。


その雑種の愛犬につけた名前が「ジョージ」


カリフォルニア生活の大切な支えだった。
しかし、愛車のポルシェに乗せていた時、
突然ジョージは外に飛び出してしまう。
それ以来、戻ってくることはなかった。


きっとジョージは今も、
何処かで迷って家を探しているのかもしれない....。
そしてジャニスを...。


1969年、12月19日、
マディソン・スクエア・ガーデンのコンサートを最後に
KOZMIC BLUES BAND 解散。


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by ohpg | 2011-01-21 00:24 | JANIS JOPLIN

JANIS JOPLIN biography ビッグブラザー脱退

JANIS JOPLIN biography 5
【BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY 脱退(1968年)】

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1968年、
BBHCは、NY アンダースン・シアターで行われた
「イースト・コースト」に出演。

この時のオープニングアクトは何とBB キング。

初のNY公演だったが、大絶賛される!
この時のジャニスをメディアは「アレサ・フランクリンの白人版だ!」
と語っているほどだった。

同年、メインストリームに25万ドルという驚愕な金額を払って解約をおこなう。
そして大手、CBSへ移籍する。

また、この時期に、
それまで長い間アメリカの音楽業界に根付いていたアーティストの男女格差が
ジャニスの登場によりなくなる事となる。
この功績はとても大きい事だったんです!

その一方、NYに於いてBBHCは、
シスコの家族的な絆を持つバンドとしてではなく、
ジャニスというシンガーのバックバンドのように扱われはじめる。
そしてついには、CBSによりバンド名を


[ JANIS JOPLIN and BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY ]


に変更されてしまう。


この頃のジャニスは、歌に対してこう述べている

「他のシンガーと同じくらい長い期間、
 歌うことは出来ないかもしれないけど、
 明日のことを思いわずらって今日を駄目にすることもあるはず...。
 今、この瞬間に手に入れるものが欲しいんです 」


1968年7月、
アルバム「チープ・スリル」リリース。

スタジオライヴ盤として発売されたものだが、
発売3日にしてゴールドディスクを獲得するという驚異的な売り上げをだす!

そんなジャニスが人々に認められたのは、
彼女が人々に見せた「公的」な姿が、
彼女の本当の人格に根ざしているものであるからだ!
....と思われたが、
それは実のところ、ジャニスの一部にすぎなかった。。
しかし彼女はそれが自分の全てだと思い込むようになっていく。

「私的」な自分よりも「公的」な自分のスイッチを入れなければならない機会が
確実に増えていたからだろう。

ジャニスは「ロスアンジェルス・タイムズ誌」にこんなことを述べている。

「ステージで歌っていると、
 空気の中で何かが本当に動いているみたいなの。
 形があるものじゃないけど、
 愛とか欲望みたいに、
 とてもリアルな何かが」


ジャニスは次第に、
本当の自分でいられるのはステージだけのようになっていってしまう。

まさにこ頃のジャニスは
「とりつかれたように感情を歌い上げるシャーマン」と化していた。


「私は感情で一杯で、いつもそれを解放したがっているの」


世の中の大衆は、
新しく発見した自由を謳歌するジャニスを見たがっていた。
会う人全てがジャニスがどんな人物かということに先入観を持ち、
ジャニスはそれに反応し付き合うことによって、
次第に自分の中の大切な「心のカケラ」を失ってしまう。。
しかも、気持ちが不安定で弱っている彼女をよそに
周囲の関係者は、BBHCの脱退を囁きはじめるようになる。
なんて最低な奴らなんだ! 悪魔め!


この頃のジャニスは、ホント疲れていたんだよ。
どうして誰もそれを分かってあげなかったんだろうか。。
彼女はいつも前向きで一生懸命、バンドの為に、ファンの為に、
家族の為に歌っていたのに...。
いつか誓った「自分に忠実であれ」という信条すら
判断することが曖昧になり、
何が一番良いのかは、他人が知っているのだと思うようになってしまう。


一方、この頃のジェイムズ・ガーリーは
大量のアルコール摂取でステージから転げ落ちそうな程だった。
そんな周囲の状況も続き、
ジャニスは、サム・アンドリューを誘ってソロ活動を決断する。

JANIS JOPLIN は既に大物になっていた。

そして他の大物たちと同じように厳しいビジネスの決断をくだしたのだ。
しかし、それと同時に
全てを自分ひとりの責任で決断していく道に足を踏み入れる事となる。

こんな大切な時期に於いても
ジャニスは家族に手紙を出して自分の選んだ人生の選択について
きちんと説明をしている。
それに対し母は、
全てを認め心から応援する意を伝えている。

そんなジャニスはこの後一気に力が抜けてしまい、
疲労のため2本のコンサートをキャンセル。
(分かりやすくてOK!笑)
それでも急速に回復した11月のコンサートで復活!
この時のヒューストン・ミュージック・ホール には
家族が全員で観に来てくれました。

実は、よくウワサされる「家族との不仲説」は、
ジャニスがマスコミに対して面白がってした作り話なんです。

そのストーリーは、
ひどい仕打ちをうけたはぐれ者が成功した!という話(笑)

その作り話の中にあったのが、よく聞く
「14才の時、家族がジャニスを追い出した」というもの。
でも実際、この話しをメディアで聞いた家族は打ちひしがれたらしい。
ま~無理もないけどね。
それでも家族は怒ったりしなかったそうです。
相変わらず悪戯っ子なジャニスだだったんだね。

さて、そしてジャニスは気合いを入れ直し、
それまでの「愛の世代の夢と幻想」にきっぱり背を向けた。


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【サンフランシスコ時代(1963年)~再び戻った家族のもと(1965年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー4
【BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY への加入(1966年)〜成功への階段(1967年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー5
【BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY 脱退(1968年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー6
【KOZMIC BLUES BAND 結成(1968年)~解散(1969年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー7
【真剣な恋、そしてFULL TILT BOOGIE BAND結成~アルバム「PEARL」レコーディング開始(1970年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー8
【1970年10月4日. ジャニスの死】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー9 最終章
【大好きなジャニスへ】


ジャニスジョップリン
シリアル別のアナログ盤、ディスコグラフィーなど、
様々なコレクションはこちらで紹介しています。
是非ご覧ください。
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by ohpg | 2011-01-21 00:07 | JANIS JOPLIN

JANIS JOPLIN biography ビッグブラザー加入〜

JANIS JOPLIN biography 4
【BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY への加入(1966年)〜成功への階段(1967年)】

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1966年、
テキサス・ユニオン・オーディトリアムで開催された
ブルースフィスティバル「バレルハウスとブルースの宵」に出演。

これは彼女にとって、
クラブ以外の場所で「プロ」として歌った初めての経験となる。
この時に聴衆は完全にジャニスに魅了され、
以来いくつかの仕事もとれるようになる。

益々、歌う事への意欲が湧いてきたこの頃、
父のオープンリールに吹き込んで作った曲が「タートル・ブルース」。
そんな折、以前から長い付き合いだった
「チェット・ヘルムズ」から1本の電話が入る。


「 BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY がシンガーを探している!」


その連絡を受けたジャニスは心に誓いをたてる。
「独自を通そう!」と。
そして突然訪れたチャンスを手にする為に
再び、ポートアーサーを後にする事を決意をする!
この時こそ、彼女の行動力、
フットワークの軽さがものをいった試しはなかっただろう(笑)

1966年、
シスコに急な移動をしたジャニスは両親へきちんと手紙を送っている。

「熱中し過ぎて、
 行き過ぎることがないよう努力している事を伝えておきたいんです。
 お父さんとお母さんをガッカリさせてゴメンなさい。
 私も少し不安ですが、
 このチャンスを絶対に逃してはいけないと思っています。
 私がこれ以上ないくらい、
 ちゃんとやろうと考えでいる事を信じてください 」

こんな手紙をわが子にもらったら、
きっと両親も嬉しかったと思うし応援したくなるに決っている。
ジャニスだって一番理解してもらいたいのは
何よりも家族だって事を言葉にしているし。


そして遂に、ジャニスは 正式に、
BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY のシンガーとして加入!


しかもシスコに到着してから僅か6日で
バンドと一緒にステージに立つという驚異的なスピード!
一方この時期ジャーナリズムが
ヒップスターから派生した「ヒッピー」という呼び名を作り上げる。
また、世の中ではLSD、メスカリンなどの
悪魔のドラッグが広がり始めていた。。
だが、アンダーグラウンドでそんな暗雲が立ち隠る社会であっても、
14才でそれまでの文化を拒否して以来、
ジャニスが探し続けてきた究極の世界がそこにはあったにちがいない。
次第に「ヒッピームーブメント」は彼女の真の姿、
その心を受け入れはじめ、ありのままの彼女を認めだした。
 
この頃、ジャニスは「ジェームズ・ガーリー」と恋に落ちる。
だがバンドの結束が固まり、
その一員であると言う気持ちが強まる一方でジャニスは常に、
このバンドでやって行く事が、
本当に自分にとって良いことであるかを自問していたようだ。
周囲が思う以上に彼女は冷静だったのだ。
そして何通もの手紙を両親に送り、
状況や心のうちを語っては相談をしている。
そんな娘に対し父は「幸運を祈り、成功を願う」と勇気つけている。
それを物語るように、
この時期のジャニスは一切のドラッグ、精神安定劑を拒否し、
好きなお酒だけにしている。
 

同年、BBHCはメインストリームより、
1stシングル「BLIND MAN/OLD IS LONLINESS」を発売。

ジャニスは一生懸命になって友達や家族にシングルを送った。
しかし、評判は今ひとつ。
BBHCは懸命な努力をして音楽の「魂」を探し始める。

あるブルース作品でサム・アンドリューがとても変わったコードを惹いた時、
ブルースに於いて純粋主義を捨てていないジャニスが

「それは、テレビのブルースよ!」

と否定した事は有名だ。


一方、世の中ではヒッピーが急増。
彼等は、両親の世代から引き継いだものに背を向け、
精神性を理解する新たな道を模索した。
そして社会に向かって「私達は全員がひとつの精神的存在だ!」と叫んだ。
ジャニスもまた「自分達で愛にもとづいた社会を築くのだ!」と説いた。
「フリーラヴ」こそもっとも尊重した合い言葉であり、

「愛を全ての人に分け与えていけない理由は無い!」

というものだった。
 

1967年、ジャニスは言っている。

「みんなが私に何を求めているのかが分かりました。
 それは、私の自由な感情なんです!
 BBHCは譜面を読めません。
 私達は感情をコントロールして上手い演奏をするプロじゃなくて
 激情にまかせて下手な演奏をするんです! 」
 

ジャニスはそれまでにない自信に満ちあふれ
「一文無しになって分裂するか、有名になって金持ちになるか」
というギャンブルにかけていた。
そして世に中の、
伝統的な社会と新しい社会の落差が大きくなればばるほど、
ジャニスの生活と仕事は華やかになっていった。


この頃からフィルモア、アヴァロンで定期的なコンサートを開始。
同年にゴールデン・ゲイト・パークで行われた
「ヒューマン・ビー・イン」では2万人を集客する。
この時に一緒に出演したのが、
グレイトフル・デッド、クイックシルバー・メッセンジャー・サーヴィス、
ジェファーソン・エアプレインなど。
まさにロックンロールとドラッグ、フリーラヴが融合したコンサートとなる。

しかしこの頃から成功への思いがジャニスを支配するようになってゆく。

「成功」するという事にとりつかれるあまり、
自分と同じように考えない人間を理解出来なくなっていた。
だが、仕事面に於いては以前よりも真剣に考えられるようになった。
 
そしてあの
「モンタレー・インターナショナル・ポップ・フィスティバル」に出演。
ピート・タウンジェントはギターを壊し、
ジミーはゴールドのシャツに赤いベルボトム、
その首には羽を撒いて現れギターを燃やしてクライマックスを飾った。
BBHCの演奏も「奇跡」と絶賛されたが、
事もあろうが、そのコンサートを撮影されていなかったのである!
それに激怒したメンバーは主催者に交渉し、
結局もう一度ステージで演奏しフィルムに収める事を了承させた。
そのステージが所謂アンコールだったのだが、
この日アンコールを行ったのはBBHCだけ。
世の中の人々はフィルムを収めるためだけのステージだったとは知らずにいたが、
逆にこのアンコールがバンドの評判を底上げする事になった。

その後、メインストリームは1968年までにBBHCの人気を利用して
4枚のシングルと1枚のアルバムをリリースするものの
どれも古い音源ばかりでメンバーを激怒させる。

しかし結果としてBBHCはまさに成功を手にすることとなる。

ろくなアルバムもリリースしていない状況にも関わらず、
いつしかバンドは一晩で2500ドルも稼げるようになっていた。
アメリカの音楽業界は確実に革命がおこり始め、
大きく変わろうとしていた。

ジャニスも次第に多忙な生活へ追い込まれはじめ、
彼女はアルコール程度にヘロインを始めてしまう。。。


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JANIS JOPLIN バイオグラフィー1
【ジャニスリンジョップリン誕生(1943年)~ハイスクール時代(1960年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー2
【カレッジ時代(1961年)~LA. ヴェニス. オースティン時代(1962年)】

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【サンフランシスコ時代(1963年)~再び戻った家族のもと(1965年)】

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by ohpg | 2011-01-20 23:51 | JANIS JOPLIN

JANIS JOPLIN biography シスコ時代~家族のもと

JANIS JOPLIN biography 3
【サンフランシスコ時代(1963年)~再び戻った家族のもと(1965年)】

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1963年、
出演していた「コーヒー・ギャラリー」を通じて知り合った
Peter Albin / ピーターアルビン(後のB.B.H.C)に紹介され
一緒にシスコのラジオ番組に出演。

地道に少しづつ音楽的な活動を行っていくものの、
何とこの頃、
ジャニスは資金を稼ぐためにニューヨークへ渡り
大きな会社に就職しキーパンチャーとしてOLになる(笑)

その数カ月後、
稼いだお金で12弦ギターを手に入れ再びシスコに戻っている。
ちなみに、それまで大切に使っていた6弦ギターは妹のローラにプレゼントした。
ジャニスはホント妹が大好きだったんです。

1964年になると、
公民憲法が議会を通過しついに人種統合が法律で定められる。
その時ジャニスは、

「私が、最初の黒白人だ!」

と公言した。

この頃、父がジャニスに会いにシスコを訪れている。
彼は、ジャニスが自分の人生を見つけ、
一人立ちするのを一生懸命助けようとしていた。
ジャニスの生活には一つも文句をつけずに、
彼女がが描いた絵や作った歌を素晴らしいと心から誉めてあげたのだ。
そして、父もまた、「おまえは必ず成功する!」と言った。
それと同時に、
「おまえの絵を買ってくれる人や、歌を聴いてくれる人達との繋がりを失うな!」
とも助言している。
そんな優しい父の言葉に奮起し、
今まで以上にジャニスは一生懸命頑張るのであった。

しかし一方で、
芸術を追求する生活には少々疲れはじめていた様子。
この当時、ジャニスは自分の事を


「 両端に火のついた蝋燭 」


と読んでいた。

そんなジャニスはいつしかスピードに手をつけてしまい、
気がついた時には既に、
大量の摂取により身体はボロボロで限界に達していた。
そして再び家族のもとへ帰る事にする。

1965年、
再びポートアーサーで生活を始め
ラマー・カレッジのサマースクールに2度目の入学。
そこではきちんと勉強を行い優秀な成績をとっている。
この頃のジャニスは、将来、介護の 仕事につこうと思っていた。
人を助ける事で、意味のある人生を送りたいと考えていた。
それは、ジャニス自身がそうであった事、
人の助けを求めていたからこそ理解できた大きな変化だったのだ。

実はこの頃に彼女はボウモントのカウンセラーに
自主的に通い精神分析療法を受けている。
ジャニスは自分に変化を求めていた。


「 まっとうな人間 」に変わりたがっていた。


作る歌の内容も変わり始め、
「夢を追いかける」といったテーマにした曲も作っている。
後に、妹のローラに贈った「私と一緒に行こう」がそうである。
また、母のために長い間描いていなかった筆をとり、
玄関に飾るクリスマス用の絵を描いたりもしている。
彼女の中にある本当の優しさや人間らしさが、
家族との生活によって再び取り戻す事ので来た至福の時間だったに違い無い。
そんな幸せな状態の中、
彼女はまたヒューストンやオースティンで歌う事をはじめる。
でもこの頃は、
以前のような思い付きや衝動だけではなく、
満ちあふれた生活の下に於いて歌う余裕が出てきたんだと俺は思う。


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【ジャニスリンジョップリン誕生(1943年)~ハイスクール時代(1960年)】

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【カレッジ時代(1961年)~LA. ヴェニス. オースティン時代(1962年)】

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【1970年10月4日. ジャニスの死】

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by ohpg | 2011-01-20 23:33 | JANIS JOPLIN

JANIS JOPLIN biography 大学時代〜オースティン

JANIS JOPLIN biography 2
【カレッジ時代(1961年)~LA. ヴェニス. オースティン時代(1962年)】

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高校を卒業後、
ハイスクール時代からの仲間を追っかけて
テキサス州ボウモント近くにある
「ラマー.カレッジ・オブ・テクノロジー」に進学。
そこで美術を専攻し熱心に勉強を行う。
しかし学校生活にウンザリし、生活は悪化。

当時、ビジネス・カレッジで働いていた母は、
短期訓練科が彼女の問題を解決すると考え、
大学を退学し「ポートアーサー・カレッジ」に入学。
キーパンチやタイプ、諸事務などの勉強をすることになる。
しかし、ここでも相変わらず変わることもなく、
友達とダウンタウンのレコード店に通い始める。


そこで彼女は「ベッシー・スミス」のレコードと出会うのだ!


そしてこの頃から、
オープンリールに自分の歌を吹き込む快感を覚えてしまう。
何度も録音した音を友達と聴いては大満足していたらしい(笑)

そんな折、
多くの友人がポートアーサーを出ていってしまい、
ジャニスも、もっと素敵なところへ行きたくてウズウズしはじめる。
そこで両親に相談しロスアンジェルス行きが決定する。
当時、両親はロスに2人の叔母がいて
ジャニスを監督できる最適な場所と考えていたが、
当の本人からすれば、
ビートグループで知られるアメリカの3つの都市のひとつであり
芸術活動が盛んだった事へ何よりも胸を踊らせていた。

そしてついに、
ポートアーサーを出て新たな場所、ロスへ旅立ち、
友達3人と一緒に暮らしはじめる。
そんな意気揚々として乗り込んだロスだったが.....
結局、長続きせず、
様々な出来事に嫌気がさしてバイト帰りにアパートには戻らず、
バスの中で知り合った男について行きヴェニスへ辿り着く事となる。

しかし、
当時のヴェニスはビート全盛期からかなりの時が経っていて、
ジャニスが乗った波は
「リプトン」が出版した著書
『聖なる野蛮人』(1959年)で有名になった街に惹かれて押し寄せた
新しい住人の大波の最後の小さな波だった。
その頃には街もすっかり朽ち果て、
殺人、強盗などといった犯罪がはびこっていた。
そしてヴェニスはもはやドラッグの世界の中心でもあった。

また、当時のロスとヴェニスのビートシーンを特徴づけるのは、
ドラッグと芸術の関係であり
それを象徴するのが「一晩中、寝ないで芸術を創造」する事であった。
しかし、ジャニスにとってここで眼にした沢山の才能に
多大な影響を受けたことは言うまでもないだろう。
そして、この頃から
シンガーとしての才能も少しづつ現しはじめるのだ。

ところがそんなジャニス、
1961年に突然、
何の予告もなくポートアーサーの自宅に帰宅!?
しかし、ロスでの自由な暮らしを経験してしまったせいで、
再び両親の監督の下で暮らす事にいささか息苦しさを感じ始め
1962年の春に、新たな計画を企てはじめるのだった。
でも、ジャニスが戻った時、家族はみんな心から喜んだらしい。

一方、ポートアーサーにはオースティンの活気に溢れた噂が伝わりはじめる。
相変わらずのジャニスはまたこっそり父の車を拝借し、
オースティンの大学に通う友達の「ジャック・スミス」とオースティンを訪れる。
そこで連れていかれた場所が、
ニュエイサス.ストリート.2812.1/2のアパートメントにあった


そう、「ザ・ゲットー」だった。


ちなみにゲットーの合い言葉は「何ものにも束縛されない!」

ここで再び素晴らしい出合いをしたジャニスは、
また両親を説得し
1962年、「テキサス大学-UT」へ入学することになる。
それにしても、とんだお転婆娘で
両親もいくらお金があっても大変だっただろう(笑)
でもいつでも彼女のやりたいように信じて応援してくれていたんだと思う。

この頃からジャニスは
画家の孤独な作業からパフォーミングアートへと興味を移し始め
絵を描くことよりも、人前で歌う喜びの方に魅力を感じていた。
やがてゲットーの住人、
パウエル・セント・ジョン(ハーモニカ)、
ラニー・ウィギンス(ギター&バンジョー)と3人でグループを結成。
ブルーグラスやカントリー、フォークなどをはじめる。
そして、この時期に彼女にもっとも影響を与えた人が


ケネス・スレッドギル


彼はシンガーでもあり「スレッドギル・バー」の経営者で、
「ホンモノ」の音楽の正統的なルーツを沢山教えてくれたのだ。
ガソリンスタンドを改装したこのバーは、「禁酒法」が解かれた時に、
オースティンで最初の酒類販売特許を取得した店。

スレッドギルはジミー・ロジャーズの信捧者で、
そんな彼をとおしてジャニスは
「ひとつの音楽に、情熱的に関わることの素晴らしさ」を学ぶこととなった。

そんな素晴らしい環境の中、
ジャニスもグループ3人で「スレッドギル・バー」で歌うようになる。
ちなみにこの頃のギャラは3人で2ドルの現金と
飲めるだけのビールだったらしい(笑)
ん~こりゃ、ビールの方が俺も嬉しいかも。

ところが、
何とジャニスは次第にギャラをメンバーで分ける事が惜しくなり
ピンでも演奏しながら歌えるようにとギターを始める(笑)
この行動力は凄い!というか恐い(笑)

当時の父親的な存在だったスレッドギルはこの頃から、
ジャニスの才能を見抜いていたようだ。

「ジャニス、おまえは必ず成功する。それだけのものを持っている」と言った。

それからというもの、
ジャニスは歌って歌って歌いまくる日々が続いた。

よく、ジャニスが父親と決別し、
その姿をスレッドギルに重ね合わせていたなんて噂もあるが、
そんな事はない。
この頃も、いつだって
ジャニスはきちんと両親と向き合っていました。
なんでそ~何でもかんでも彼女の出合いと別れをセットにして
悲劇的な話にするのかが、俺にはさっぱり理解ができない。。。

ちなみに20才になったこの頃、
「コーヒーギャラリー」と言う店も気に入り出演させもらうようになる。
そしてこの店こそ、
後に BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY で一緒に活動を共にする


James Gurley / ジェイムズ・ガーリー
Sam Andrew / サム・アンドリュー

が出演していた店であった。


さて、ここまでのジャニスは、
既知の世界と未知の世界のはざまで生きる興奮が好きだったんだと思う。
彼女の衝動はポートアーサーで形成され、
オースティンで初めて、自分の力を試し、
一生懸命練習をした。
オースティンはジャニスに歌うことを教え、
テキサス流の精神に満ちたモノの見方を教えてくれたのだ。
そしてそこで、水の冷たさを調べ、経験を積んでいった。

ジャニスは既に、
チャンスが巡ってきた時の準備が整っていたのだ。


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by ohpg | 2011-01-20 04:02 | JANIS JOPLIN

JANIS JOPLIN biography 誕生〜ハイスクール時代

JANIS JOPLIN biography 1
【ジャニスリンジョップリン誕生(1943年)~ハイスクール時代(1960年)】

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人の経歴ってのはそりゃ~長いもん。
例え若くして逝ってしまった彼女に於いてもそうとうなもんです。
でもここでは敢えてきちんとゴシップなしで語らせてもらいます。
あくまでも、俺なりの観点も含めて。相当長いです。


1943年、1月19日、
テキサス州. ポートアーサーにて、
父のセス・ウォード・ジョップリン、
母のドロシー・イースト・ジョップリンの長女として産まれる。


本名は「ジャニス・リン・ジョップリン」


兄弟は6才違いの妹、ローラ・リー・ジョップリン、
10才違いの弟、マイケル・ジョップリンの5人家族。

彼女が産まれたアメリカは
第二次世界大戦が激しさを増していた恐慌な時代だった。

よく、両親の育て方が悪かった、なんて噂もあるが、
そんな事は決してない。
幼少の頃はとても可愛がられてスクスクと悪戯好きな、
どこんでもいる元気一杯な女の子として育った。
どちらかと言うと男勝りな子だったので、
女の子よりも男の子の友達が多かったよう。
こんな性格が後に随分と
単に「男好き」みたいなレッテルを貼られる事がホント頭にきます。

ハイスクール時代、
2年生の時に「小劇場グループ」の男の子達と一緒に年鑑制作の委員になる。
そこで彼等はジャニスに、
自分達が夢中になっていた新しい世界を教えた。
それが、1957年に「ジャック・ケルアック」が出版した、
生き方のひとつの選択ぎを示した衝撃的な本「路上」だった。
それはまさに「ビート・ジェネレーション」の時代であり、
やがてそこから「ビートニク」が発祥することとなる。
この本に登場する「ディーン・モリアティ」なる人物を
当時の現代の素晴らしいアウトローとし、
ケルアックはそれを「白い黒んぼ」と称した。


ジャニスにとってこの「ビートニク」の生き方が、
後の人生にとても大きな影響を与えていく。


所謂「ビート派」とは、
生きている実感を取り戻すために、
本当に大切なもの以外の全てを生活から切り捨て、
貧乏である事をも素晴らしい事とし、清貧の中で生きている人。
得に黒人のジャズミュージシャンを賛美していた。
そして、慎ましさと自由のバランスを保つミュージシャンの人生の中に
答えを見つけようとしていた。

一般的に「ビート」というスラングは
「疲れきった/デッドビート」「使い古された/ビートアップ」
から来ているらしいが、
ケルアックは「幸福に輝く/ビアティフィック」と言う言葉から派生し、
心の中の「魂」が発する音楽のビートに合わせて歩む事だと考えた。
例えば、当時の代表的な映画だと「理由なき反抗」など。
ジェームス・ディーンの横柄な態度と
ブルージーンズという新しいコスチュームで、
しゃちほこばった世界を見下すみたいなね。
そして貧しい黒人が持つ、
高遇な道徳心と称えたケルアックの理想をジャニスは自分の理想とした。

随分、黒人に対して貧しいだの、
白人より劣っているみたいに綴っているけど、
当時はまだまだ人種差別問題が大きく社会の風潮にあった。
でもそんな影響もあって彼女は


人種差別問題は、あってはならないこととにして歌っていく。


だから、エラ・フィッツジェラルドも偉大だけど、
ジャニスの功績もとても大きいことだと俺は思っている。

まさにエラの逆バージョンじゃないですか。
これはとても理解してもらいたいところなんです。

そんなジャニスは当時、
あまりに黒人を見下す学校の先生に向かって

「あたしは黒人だって大好きよ!」っとハッキリ言葉をぶちまけた。

それ以来、
「黒んぼ好き」と周囲から罵られたりする事になってしまったけど、
そんな真直ぐで、大きな愛の器を持った彼女は大好きだ。
でも、当時に於いては相当な爆弾発言だった。

この出来事以来、
ジャニスは生き延びるために世間に対して強硬な態度をとることにした。


高3あたりになると、
ジャニスも次第にビートニクっぽくなってくるが
当時はどちらかというと単に反抗児に過ぎなかった。

苦労していい具合に汚したスニーカーを洗われて
激怒とかしていたらしい(笑)
当時、人々がまだ、他人と違っている事を望んでいなかった時代に
ジャニスは人と違う生き方を目指していた。

一方、この頃は
ビル・ヘイリー、エルヴィス、バディ・ホリーなどが大流行。
ロックは耳を傾ける音楽ではなく、それに合わせてダンスする音楽であった。
ちなみにロックンロールのルーツは、
フォークと黒人のリズム&ブルース、カントリー、ウエスタン。


ジャニスは踊るロックよりも、ロックのルーツに興味を持ちはじめる。


当時ジャニスがもっとも惹かれた音楽は黒人のブルース。
そして生まれついた白人世界の外に出て、
人種を超えて黒人文化の詩情と精神に触れることとなる。
それと同じ時期に、
自分に向いているのは「絵」を描くことだと考えるようになる。


さて、思春期に入ったジャニスは
当然の事ながら、どこにでもいる高校生。
勿論、お酒にも興味深々になり始めます。

当時のポートアーサーの街には
グリフィング・パークやペア・ロッジといった
独自の法律をもつポケットのような場所がいくつかあった。
酒を店で飲み物として出してはいけないというテキサス州法の他、
酒屋の所在地を限定することによって
「禁酒」という錦のお旗を高くかかげる小さな飛び地ができるというしくみ。

要するにアル中をなくそう!という運動。

そんな状況の中、
ジャニスは本から酒についての知識を学んだ(笑)
なんか可愛いよね~。
しかもかな~り一所懸命調べてたらしい(笑)
そして彼女は文学的才能と酒グセの間には強いつながりがある事を発見!
なんのこっちゃ~(笑)

F・スコット・ジェラルドや
ジャック・ケルアック、エドガー・アランポーなど、
1958年までにノーベル文学賞を受賞した8人のアメリカ人のうち
4人がアルコール依存症だと判明!
やがて仲間達と近くにあるミュージックホールへ通い始めるようになる。
それは、幸か不幸か、
ポートアーサーはルイジアナ州との州境近く。
しかもルイジアナ州は18才から酒を飲む事が出来たのだ。


17才の頃、
友達とニューオリンズへ大好きな音楽を聞きに
両親に内緒で父の仕事用の車を拝借し
「友達の家に泊まる」と嘘をついて出発。
ところが、帰りにラジエーターが壊れ車が動かなくなってしまう。
この時、ルイジアナ州の警察が
ジャニスが未成年者で成人の男達と州境を超えている事を知る。
しかも事もあろうが、
ジャニスがその男達に性的強姦をされてると勘違いされる!?
それ以来、ジャニスは

「ニューオリンズで複数の男達といけない事をしたフシダラな女」

として勘違いされるようになる。。。

でもこれは本当に全くのデタラメで
彼女達は一晩中大好きな音楽を聴いてバーからバーへ渡り歩き、
いくつものバンドのライヴを観ただけだったのに。。

映画「ROSE」でもこの忌わしい話しがちょっと出ていたような気もする。
ホントあの映画は嫌いだ。

ジャニスにとっての高校時代は
楽しく過ごしたのと同じくらい辛い時期でもあった。
でも、俺だってそうだった。
彼女が不運だったとか何とかってよく言われるけど、
みんなそうじゃないのかな?
最近の虐め問題と一緒だと思う。


彼女はどこにでもいる普通の女子高生だったんだよ。



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JANIS JOPLIN バイオグラフィー1
【ジャニスリンジョップリン誕生(1943年)~ハイスクール時代(1960年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー2
【カレッジ時代(1961年)~LA. ヴェニス. オースティン時代(1962年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー3
【サンフランシスコ時代(1963年)~再び戻った家族のもと(1965年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー4
【BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY への加入(1966年)〜成功への階段(1967年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー5
【BIG BROTHER AND THE HOLDING COMPANY 脱退(1968年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー6
【KOZMIC BLUES BAND 結成(1968年)~解散(1969年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー7
【真剣な恋、そしてFULL TILT BOOGIE BAND結成~アルバム「PEARL」レコーディング開始(1970年)】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー8
【1970年10月4日. ジャニスの死】

JANIS JOPLIN バイオグラフィー9 最終章
【大好きなジャニスへ】


ジャニスジョップリン
シリアル別のアナログ盤、ディスコグラフィーなど、
様々なコレクションはこちらで紹介しています。
是非ご覧ください。
Gisuke YOUNG DUDES BAR PC web site
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by ohpg | 2011-01-20 03:46 | JANIS JOPLIN

JANIS JOPLIN

ここでは俺が死ぬ程好きでリスペクトされ、
世界一愛しているシンガー
JANIS JOPLIN/ジャニスジョップリンの紹介をします。

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一般的に彼女のイメージは、
「酒とドラッグ」「SEXに溺れた悲劇のロッカー」
みたいな感じだけど、決してそんな事はない。

死後、
様々なゴシップで作り上げられたスタイルは、
あまりにもひどすぎる...。

俺自身、現在までに様々なメディアや文章、
ネットなどを通じて沢山の情報を目にする事がありますが、
どれもゴシップに基づいた情報ばかりなような気がしてならない。
そんな事もあり、
もっと本当の彼女を知ってもらいたいと思う気持ちが強くなりました。

そして何よりも彼女は普通の女性であったと言う事も。。。

彼女が求め歌ってきた「心」を
俺は継承してゆきたいと思っている。


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JANIS JOPLIN バイオグラフィー1
【ジャニスリンジョップリン誕生(1943年)~ハイスクール時代(1960年)】

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by ohpg | 2011-01-20 03:01 | JANIS JOPLIN